【夫婦関係】「介入」ではなく「信じて祈る」・・・僕の20年間の過ちとは―

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僕の夫婦関係は破綻してしまいました。家庭内に僕の居場所も存在感も、ありません。結婚して20年弱。どうして、こうなってしまったのか。これから先、僕はどうあるべきなのか。独り言のように考えてみました。

「20年かけて私の社会的な居場所を剥奪…」

夫婦 タイトル

僕と妻は、ほとんど会話をしなくなってしまいました。こんな状況に至ってしまった経緯は、こちら↓の記事に書いたので、今回は割愛します。
【家庭内別居】僕たち夫婦のパートナーシップが壊れてしまった理由(体験談)
【産後クライシス】妻が僕を憎むようになった理由… 妻の怒りに夫としてどう向き合うか(体験談)

最近になって、壊れてしまった関係に少し変化が感じられて、こんなの↓も書いてみました。
【夫婦関係】修復の兆しか!?離婚回避のために僕が取り組んだこととは―

この記事では、破綻してしまった夫婦関係を少しでも改善するために、僕が取り組んだ「相手を咎めない、ジャッジしない」ということについて書いています。少しは関係がいい方向に向かったような気がして書いてみたのです。

ですが、それほど甘くはありませんでした。今日、ちょっとしたことがきっかけで、妻から長文のメールが届いたのです。そこには、僕の心臓を貫くような、こんな言葉が書かれていました。

「20年かけて私の社会的な居場所を剥奪してきたことを絶対に許しません」

妻の中にある大きな怒りに、改めて圧倒される思いでした。僕がどのような努力をしたとしても、決して許されることはないのだと痛感しました。

そして、とどめの一言が。

「あなたはあなたがしてきたことの結果として、家庭内に居場所も存在感もなくなってしまった事実を知るべきです」

長文メールのきっかけは―

夫婦 メール

このメールが書かれたきっかけ自体は、実は大したことではありませんでした。

僕はFACEBOOKにアカウントを持っています。普段は読む専門なのですが、先日ちょっとした投稿をしたんです。

そうしたら、二人の娘たちが通う習い事の教室の先生が、僕の投稿に書き込みをしてくれました。その先生とは、以前からFACEBOOK上で友達関係になっていて、僕の投稿に気付いてくれたのです。僕は先生への返信に、普段から娘たちがお世話になっていることへのお礼を書きました。

それだけならよかったのですが、そういうやり取りがあったことを、先生が今日、ポロッと妻に話したらしいのです。

やり取り自体は大した内容ではありません。妻のプライバシーに触れるようなことも書いていませんでした。もちろん、僕にも先生にも悪意などなく、普通に見れば何の問題もないはずのやり取りでした。

でも、妻にとっては、自分や娘たちと社会との接点に、僕が「介入」したと感じたのです。そして、これまでの20年間、僕が「介入」することで壊されてきた妻と社会との関係に、思考がつながってしまったのでしょう。

妻は「今この瞬間」ではなく、もう変えることのできない「過去」と、過去のできごとに対する「思い込み」に、心をすべて持って行かれてしまったのだと思います。それだけ深く傷ついてきたのです。

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僕は妻の何を剥奪してきたのか

僕はこれまでの記事にも何度も書いてきたように、自分のコンプレックスを克服できないまま大人になってしまった、とても未熟な人間でした。一言で言うと、自立できていなかったのです。

そんな僕との結婚生活で、妻は心身の状態を悪くしていきました。でも僕は、彼女の病の原因が僕にあることに気付きませんでした。

未熟な僕は、弱っていく妻を見て、こう考えました。

「妻を僕が守らなければならない」

妻が聞いたら「何を寝ぼけたこと言ってるの!?」と激怒しそうですが、当時の僕は、真剣にそんな風に考えていたのです。

しかし、自立していない人間が「人のために」と考えることほど、危険なことはありません。共依存の関係に、知らず知らずのうちに、はまり込んでいってしまうのです。

僕は「妻のために」という名目で、仕事に打ち込むことをあきらめました。上司や同僚に対して、「妻の調子が悪いので」というのを、言い訳の切り札に使い、会社を早退して妻を病院い連れて行ったり、欠勤して家のことをするようになりました。「病弱な妻を献身的に支える夫」を演じるようになったのです。

演じる、とは言っても、実際に仕事と家のことを両立するのに必死だったので、演じている意識などありませんでした。無意識にそんな自分を守ろうとし、自分を守るために妻を弱者に仕立てたのです。

こうなると、僕の会社においては、妻は「病弱で、夫の仕事の足手まといになる存在」というレッテルが貼られることになります。

同じように、妻の人間関係にも、僕は介入していくことになりました。

例えば、妻がママ友の集まりに体調不良で行けなくなってしまうことがあったとします。そんなとき僕はママ友への連絡役をするのですが、そこでも僕は「病弱な妻を献身的に支える夫」を知らず知らずのうちに演じていたようです。

その結果、徐々にママ友たちの妻への意識が変化していきます。誰も表立っては口に出さないものの、「ご主人がんばってるのに、あなたはもう少ししっかりしないとね」という空気が芽生えていったのではないかと思います。それを妻は敏感に感じ取り、傷つき、孤立することになりました。

妻の人間関係ひとつひとつに、僕は同じような介入をすることになりました。そして、妻はひとつひとつ居場所を失っていきました。

このことを妻は「20年かけて私の社会的な居場所を剥奪してきた」と表現したのです。まさにその通りだったと、今の僕は、ようやく自覚できるようになりました。

妻の中には、自分からすべてを奪った憎むべき夫がいます。今の僕が少し改心したからと言って、これまでの20年を不問に付せるほど、彼女の傷は軽いものではありません。

だから、今日のFACEBOOKの出来事のような、それ自体は問題ではないような小さなきっかけであっても、自分と社会との接点に僕が介入するようなことが起こると、妻の中ですべての悲しみと怒りがつながってしまうのだと思います。

「介入」ではなく「信じて祈る」

では、僕はどうあるべきだったのか。

まず僕は「自立」した人間であるべきでした。

自立とは何でしょうか。今、僕が思う自立とは、「自分の責任で自分の人生を決められること」です。「自分で自分を幸せにできること」と言ってもいいかもしれません。

僕は自立していませんでした。すべてを「病弱の妻のせい」にして、自分の人生を自分で決めることから逃げ続けてきました。

僕が自立した人間であったならば、妻が心身の調子を崩したときに、「介入」するような世話のしかたをするのではなく、彼女が自分の力で立ち直っていくようサポートすることができたでしょう(そもそも僕が自立した人間だったら妻は調子を崩さなかったのだと思いますが…)。彼女の中に自立する力があることを信じて、そっと寄り添うだけでよかったのです。

妻が友人との関係に悩むことがあったとしても、僕は彼女が自分の力で問題を解決できると信じて見守るべきでした。彼女に自分の課題を克服する力があることを信じて、そっと祈りながら、味方でいるだけでよかったのです。

なのに僕は、妻に力があることを信じようとしなかった。というより、妻が弱い人間であった方が、僕にとって都合がよかったのです。妻が自分で課題を乗り越えていくことを、見守ることができず、むしろ阻害しました。

それは、僕が自分自身を信じていなかったからだと思います。自分の課題を自分で乗り越えてこなかったからです。つまり「自立」できていなかったからなのです。

自立できている人は、自分を信じています。条件をつけずに、ただ存在しているだけの自分を信じることができます。そして課題を自分の力で乗り越えていけることを知っています。

だから自立している人は、相手のことも無条件に信じることができるのだと思います。相手が自分の課題を乗り越えていけることを知っています。それを祈るだけでいいことを知っているのです。

そういう自立した人がそばで見守ってくれたら、どんなに心強いでしょうか。パートナーとは、そういう関係が理想なのではないかと、今僕は考えています。

許されなくても、居場所がなくても

僕はこれから先も、妻から許されることはないでしょう。僕が家庭に居場所を持つことを、妻が許してくれる日はこないかもしません。

そんな僕は、これからどう生きるべきなのか。

最悪なのは、「妻が許してくれないから」「妻が僕に居場所をくれないから」と、自分の不幸を妻のせいにすることです。今までの過ちは、すべてここから来ているのですから。

僕は「自分を幸せにするのは自分」というところに、常に立ち続けたいと思います。

角度を変えて考えると、妻が「夫のせいで自分は不幸になった」と思い込み続けるのは、妻自身の課題です。

そして、妻はきっと自分の力で、その課題を乗り越えていけます。夫のせいにすることを手放して、自分の幸せを自分で築いていける。その力が彼女にはあると、僕は無条件に信じればいいのです。彼女の影の味方になって、そっと祈り続けたいと思います。

「咎めない、ジャッジしない」を超えて

僕は以前のブログで「咎めない、ジャッジしない」ということを書きました。妻がどんなに理不尽なことを言ってきたとしても、決して咎めない。ジャッジしない。

これは、自分自身を咎めない、ジャッジしないことの、裏返しのアプローチでした。

僕はこのやり方に、「相手を信じて祈る」ということを、加えてみたいと思います。

これは、自分自身を信じて祈ることの、裏返しのアプローチですね。

相手は自分自身を映し出す鏡だと言います。相手は自分自身なのです。相手を咎めず、ジャッジせず、信じて祈る、ということは、そっくりそのまま、自分を咎めず、ジャッジせず、信じて祈る、ということと同じなのです。

このあり方を通じて、僕は少しずつ真の自立に近づいていけたらと思います。

なんだか、ぐるぐると独り言をつぶやいてしまいました。長文をお読みいただき、ありがとうございました。

〔追記〕
でもやっぱり妻の無視や否定にあうのは、とてもつらくて… なかなか成長できず後戻りばかりですが、そのつらさを独り言のように書いてしまいました…
【夫婦関係】妻から無視されることに耐えられますか?

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