こんにちは! 社畜ならぬ家畜のえいぷりおです!
前回の記事で「自己愛性パーソナリティ障害」について触れました。
僕は、結婚してから自分の発達障害(ADHD、アスペルガー症候群)の傾向に気付きました。
そして、自己愛性パーソナリティ障害という心の闇が、自分の中にあることを知りました。
この心の闇は恐ろしいものです。もっとも近い人間関係の中で、牙をむくのです。
僕はいかにして妻を傷つけ、夫婦関係を崩壊させてしまったのか。詳しく振り返ってみます。
僕の「大人の発達障害」体験談は、次の7つの記事からなります。
【僕の「大人の発達障害」体験談】
恋人への憧れと嫉妬
この記事は、「大人の発達障害」に関する連載シリーズのひとつです。前回の記事はこちらです。
【自己愛性パーソナリティ障害】僕の心がゆがんだ原因と経緯(体験談2) 話は結婚する前までさかのぼります。僕と妻が出会った大学生時代から振り返っていきます。妻への憧れ
妻は僕よりも感性に優れ、僕よりもバランスのとれた教養を持っていました。健全な目標を持ち、心を通わせる友人もいました。
彼女に対して、僕は自分にはない魅力を感じました。それに加えて、彼女は笑顔の素敵な美人でした。それまで女性と付き合ったことのなかった僕は、彼女に交際を申し出ました。そして、なんと彼女はOKしてくれたのです。
今考えれば、彼女との出会いは、僕にとって成長のチャンスとなるはずでした。でも僕は、そのチャンスを生かすことができず、自分自身の弱さと向き合うことができませんでした。
妻への嫉妬
付き合いを重ねるに従って、僕の中に彼女への嫉妬のような気持ちが膨らんでいきました。自分より優れていることへの怒り。素晴らしい友人に囲まれていることへの妬み。そういった気持ちが、どす黒く僕の心の底に広がっていったのです。
はっきりと自覚していたわけではありません。ですが、彼女への態度や言葉の端々に、彼女を攻撃するような響きが現れ始めました。
妻に投げかけた心ない言葉
例えば、彼女は将来への夢を持っていました。
僕にはそういったものがありませんでした。自分を消すことで思春期をやり過ごしてきた僕は、将来への目標や人生観などを育まないまま年齢を重ねてしまったのです。
彼女と接していると、僕は自分に決定的に欠けたものを突き付けられることになりました。それは耐え難いことでした。
そして、表面的にはいい人をよそおいながら、彼女の生き方を否定するようなことを、会話の細部に散りばめるようになっていきました。
「君の夢など、つまらないものだ」
「君のやり方では目標の達成などできない」
「そもそも君は僕よりも劣った人間だ」
はっきり、そう言葉にするわけではなく、態度やちょっとした言葉のニュアンスを通じて、そういうメッセージを伝えていくのです。
彼女にしてみれば、好きで付き合っているはずの恋人から、得体の知れない否定的なオーラを受けて、戸惑ったことでしょう。そして、知らず知らずのうちに心に傷を負っていったと思います。
これこそが、僕が心の中に育ててしまった悪魔、「自己愛性パーソナリティ障害」でした。
極めて自己中心的で、相手の人生を尊重するという姿勢が決定的に欠けているのです。今こうして振り返ってみて、自分で自分が怖くなります。
美人の彼女が「自己愛」を強化した
彼女は僕にとって初めての恋人でした。先にも書いたように、彼女は美しく魅力的な人でした。彼女が僕からの告白を受け入れてくれたことは、有頂天になるほどうれしいことでした。
ですが、皮肉なことに、彼女と恋人になれたことがきっかけで、僕の中の悪魔は膨れあがっていったのです。
「こんな美しい女性と付き合っている自分は、やはり優れた人間なのだ・・・」
もろかった自己愛が、恋人を得たことによって強化されてしまったのです。
彼女と付き合い始めて2年目には、大企業への就職が内定。さらに肥大化した自己愛は、その内側に傷つきやすい本当の自分がいることを、忘れさせていきました。
こうなると、彼女は尊重すべき大切な存在ではなく、自己愛を確かなものにするための道具のようになっていきました。
彼女の前で顕著になったアスペの傾向
そして、もともと持っていたアスペルガー症候群の傾向が、彼女の前では顕著に現れはじめました。
配慮に欠ける言動が、僕の口から頻繁に出るようになりました。他人の前では必死に押し殺していた自分の破綻した性質や精神的な幼さを、彼女の前では出してもいいと思うようになったのです。
これは、どう考えても、いい意味での「気を許して」いる状態ではないですよね。彼女をないがしろにしていたのです。
例えばこんなエピソードがあります。大雪のため首都圏の交通網が麻痺したことがありました。僕も彼女も、それぞれ大切な予定のために移動中でした。
彼女は僕のことを心配して携帯に電話をくれました。僕が予定に間に合ったかを気遣ってくれたのです。
そんな彼女に対して、僕はこんな言葉を吐きました。
「僕は運よく電車が止まる前に到着できたよ。ラッキーだった」
この時、彼女は電車の遅延と寒さのために大変な目にあっていたのです。僕には、気遣ってくれた彼女への感謝も、困っているであろう彼女へのいたわりも、かけらもなかったのです。
こんなエピソードは枚挙にいとまがありません。こんなことを、僕はまったく悪気もなくやっていたのです。
当時は、これが僕の発達障害と人格障害に起因するものだなどとは夢にも思いませんでした。彼女も、そこまでは気付いていませんでした。ただ、僕という人間に対して、得体の知れない不気味さを感じていたのではないかと思います。
優しい彼女は、こんな僕と別れず、付き合い続けてくれました。そして大学卒業の直前に、赤ちゃんを授かったことが分かったのです。
妊娠と結婚がきっかけだった
彼女のおなかに赤ちゃんが宿ったことを知って、僕は瞬間的に、結婚して一緒に子供を生んで育てようと考えました。
このことだけは、僕がとった行動の中でも数少ないまともなものだったかもしれません。
自己中心的だった僕が、なぜそういう考えをできたのか、自分でもちょっと不思議ですが、赤ちゃんを中絶しようとは、一瞬も考えませんでした。
彼女と結婚して子供を生むという決断をしたまではよかったのですが、そこから先は、僕の人格障害があらゆる場面で現れました。
この時期のことは、自分の人間性の破綻を思い知らされるエピソードが満載で、思い出すのが本当に苦しいです。でも当然のことながら、本当につらい思いをしたのは妻でした。
自分の恥を書くのは勇気のいることですが、自己愛性パーソナリティ障害の人間は、こんな行動をするのだという、反面教師的なモデルケースとして、あえていくつかのエピソードを書いてみたいと思います。
妻の人生を尊重しない夫
僕たちは同時期の卒業だったので、彼女も就職先が決まっていました。
妊娠が発覚し、結婚と出産を決意したとき、僕は当たり前のように彼女は就職をあきらめるべきだと考えました。
妻が就職をあきらめるのは当然
僕が就職した会社は全国に支社があり、新人はもれなく地方に飛ばされることが決まっていて、彼女は僕の赴任先についてくるべきだと思ったのです。
でも本当は、彼女はすごく仕事をしたかったのです。社会人として自立したいという思いが、とても強い人でした。僕と違って、将来にわたる人生のビジョンや夢も持っていました。
彼女にとって就職の内定を蹴るということは、思い描いていた人生をあきらめるという重大なことだったのです。
今思えば、僕は彼女が予定通りに入社できる方法を、あらゆる角度から一緒に考えるべきでした。妊娠した状態で入社して、1年目で出産することは大変なことだろうけれど、しっかりしたサポートがあれば不可能ではなかったかもしれません。僕が地方勤務になって離れてしまったとしても、公的な支援を得るなどして、育児と仕事を両立する道はあったかもしれません。
結果として無理だったとしても、彼女と一緒にお互いの人生について真剣に考えるべきでした。そこにしっかり向き合うことで、僕たちは信頼関係を深められただろうし、サポートしてくれる様々な人たちとの縁も生まれていただろうと思います。
僕には人生のビジョンがなかった
けれど僕は、妻とともに歩む人生を考えることができませんでした。
最大の理由は、僕自身に人生のビジョンが決定的に欠けていたことです。
自分はどんな人生を生きたいのか、彼女とどんなパートナーシップを築きたいのか、どんな家庭を作りたいのか、どんな環境で子供を育てたいのか・・・そういったビジョンが僕の中にはまったくありませんでした。
自分を消して、表面的な成功だけにすがって生きてきた結果が、この空っぽの自分でした。
自分の中に人生のビジョンが存在しなかったのですから、人の人生を尊重することができないのも当然でしょう。この共感性の欠如は、明らかにアスペルガー症候群の表れであり、自己愛性パーソナリティ障害の表れだったと思います。
妻への「依存」は、こうして形成された
彼女は、就職内定を断る電話をするときに、どれほど胸がつぶれるような思いをしたことだろう。今考えると慄然とします。
当然のことながら、内定を断るまでの過程で彼女は精神的に不安定になりました。
ちょうどそのころ、僕は結婚の決意を両親に伝えるため、実家に戻っていました。
息子の突然の告白に対して、僕の両親、特に母親は強いパニックを示し、断固として反対だと言いました。これから就職する僕にとって、妻も子供も足かせになる、という考えでした。それでも僕は結婚するのだと、このときは突っぱねました。
けれど、東京にいる彼女と電話で話をしたときに、受話器の向こうで彼女は、不安にかられて取り乱し、言葉を荒げる場面がありました。就職先に正式に断りの電話をした直後だったと思います。
今考えれば、僕は彼女の不安を全力で受け止めなければなりませんでした。それなのに、僕はこう思ったのです。
「一緒に決意した結婚なのに、なぜ彼女はそれを覆すようなことを言うのだ。彼女は心変わりしたんだ」
その電話でのやり取りを理由に、僕の結婚への決意は大きく揺らぎました。そして、あろうことか、結婚に反対していた母親のもとに、僕は隠れてしまったのです。
一時的に彼女との連絡を絶ち、結婚の話は宙に浮きました。この間の彼女の不安と悲しみがどれほど大きかったか。僕は何ということをしてしまったのだろうと、15年以上が経つ今も、自分という人間の恐ろしさに悪寒が走ります。
あの時、僕の母親が、錯乱しながら相手の女性に対して示した攻撃性は、極めて異常でした。
おそらく幼いころから、このようにして僕を「外敵」から守ってきたのでしょう。僕が人生の課題と向き合うのを全力で阻止して自立の芽を摘み、いつまでも母親に依存するかわいい息子のままでいるよう、無意識にやってきたのかもしれません。それが、突然の結婚話という、息子を奪われる危機に直面して爆発してしまったのだと思います。
その後、ここで語るのが憚られるような家族同志の修羅場を経て、僕はもう一度彼女と結婚する道を選ぶことになります。
けれど、僕の根本的な問題である「自立できない未成熟さ」は、こうした過程を経ることで、むしろ強化されてしまいました。
「これは僕の人生じゃない。こういう状況に置かれてしまっただけで、僕が選んだ人生じゃない」
と、心の奥底でずっと思い続けることになるのです。
潜在意識に刻まれた「これは僕の人生じゃない」という認知が、何をもたらすか。
それは、「うまくいかないことは、すべて彼女のせい」という、妻に対する強い「依存」でした。
妻に責任を押し付けた数知れないエピソード
重要な決断から、いつも僕は逃げた
結婚生活において、家族の重要なことを決めるとき、僕はいつも責任を負うことから逃げました。
家族旅行の行先も、子供をどの幼稚園に入れるかも、重要なことは妻が決めるよう仕向けました。一見、妻の意向を尊重しているように見えて、ただ妻に責任を押し付けているだけでした。
妻は僕にも丁寧に意見を聞いたうえで、全責任をかぶって重要な選択をしました。僕はただ不平を言うだけの楽な立場に安住していました。
自分の好きなことは妻に相談もせずに決める
一方で、家具や家電を買うときには、僕は妙なこだわりを見せて、積極的に自分で選びました。妻への相談はなし。やったもん勝ちと言わんばかりに、僕独自の考えで机を買ったり、棚を買ったりしました。
それらは、まったくセンスのないものばかりでした。妻にしてみたら、気に入った家具を一緒に選んで素敵な家にしていきたいのに、夫が何の相談もなく勝手に妙なものを買ってくるのですから、とても残念な思いをしたに違いありません。
妻は僕に「どうして相談してくれなかったの?」と言いました。
ですが、批判されることに耐えられない僕は、妻に対して感情的に怒りをぶつけたのです。
このアンバランス。重要な決定はすべて妻に依存し、僕がこだわりを発揮する分野では我が道を行って批判を許さない。こんな夫との結婚生活で、疲弊しない妻がいるでしょうか。
僕が家庭内別居になった理由(体験談)アスペと自己愛はパートナーを追い詰める
恋人時代からの配慮のない言動、絶望的な結婚生活のスタート、結婚後のアスペと自己愛満載のエピソードの数々・・・
妻がどのように心身を弱らせていったのか、そしてどのように僕の異常性に気付いたのかについては、次の記事に記そうと思います。ちょっと疲れてしまいました・・・
僕はもっと早く本当の自分と向き合わなければならなかったのです。
発達障害の傾向があっても、そんな自分を受け入れて、まっすぐ謙虚に育ちたかった。幻想の自己愛に惑わされたりせず、もっと透明な目で人のことを見たかった。
大人になってから向き合うのは、本当に大変です。僕はこの鎧を脱ぎ去って、本当の自分の人生を生きていくことができるか。少しずつ見つけていけたらと思っています。
【僕の「大人の発達障害」体験談】
【つづき】 次の記事「発達障害の夫を持つ妻の苦しみ」はこちら。
【カサンドラ症候群】誰にも理解されない妻の苦しみ… 夫のアスペルガーは妻の心を破壊する(体験談4)