こんにちは。えいぷりおです。
2018年11月に発行された百田尚樹さんの『日本国紀』を、ようやく読みました。
発売前から注目され予約が殺到する一方で、大変な批判にもさらされ続けてきた本です。
僕はここに感想を書くのを躊躇しました。アンチの方からの攻撃が怖かったからです。
歴史の知識に乏しい僕が下手なことを書くことで、百田さんや善良な読者の方々に迷惑がかかるのも怖かった。
でも、一人の日本人として、やはり書いておきたいと思い、筆をとりました。
僕は『日本国紀』は、決して右翼がかった本などではありません。この国への厳しくも深い愛情に貫かれた、素晴らしい本だと僕は思います。
『日本国紀』の概要
『日本国紀』は、実に立派な装丁の500ページを超える超大作です。
『日本国紀』
著者 百田尚樹
発行 幻冬舎(2018年11月)
えいぷりお感激度 ★★★★☆(星4つ)
私たちは何者なのかー。神話とともに誕生し、万世一系の天皇を中心に、独自の発展を遂げてきた、私たちの国・日本。本書は2000年以上にわたる国民の歴史と激動にみちた国家の変遷を「一本の線」でつないだ、壮大なる叙事詩である!当代一のストーリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!(帯から引用)
圧巻だった第12章、第13章、終章
百田尚樹さんご本人が語っているように、『日本国紀』の白眉はラストの第12章、第13章、終章です。
第12章は『敗戦と占領』、第13章は『日本の復興』、第14章は『平成』となっており、計100ページが割かれています。
全体で500ページ以上に及ぶ大著。古代から大東亜戦争までを途切れない一本の線で描き出す百田さんの筆の力はさすがですが、特に敗戦から現代を描いた最後の3章は、凄まじい熱量で僕を圧倒しました。
GHQによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)については、以前から聞き知っていました。
ですが、その影響だけで、ここまで日本人の誇りが叩き壊されるものなのか、ちょっと疑問も抱いていました。
その疑問に答えてくれたのが、旧ソ連のコミンテルンによる工作活動についての記述でした。
GHQが行った公職追放、教職追放によって空いた隙間に、コミンテルンの息がかかった共産主義者、社会主義者が入り込み、官公庁、教育機関、メディア、大企業を侵していったというのです。
僕は百田さんが採用したこの説は、非常に説得力があると思いました。この説明を抜きにして、僕たちを包む不可解な空気を解明することはできないと思いました。
不可解な空気というのは、例えば憲法改正を悪と決めつけ、安全保障を語ることさえはばかられるような風潮のことです。
こうした風潮の元凶となったのがコミンテルンによる工作活動だとする説は、今後ヴェロナ文書などの研究が進むことで、正しいと証明されることになるでしょう。
子供のころから抱いてきた違和感への答え
僕の祖父は海軍経理学校を出た軍人でした。南洋の海戦で、味方の船が撃沈されるのを間近に見たといいます。
戦後は公職追放され大変な苦労をしました。
多くを語りませんでしたが、戦後の変わり果てた日本の姿を憂慮していたことが、背中から伝わってきました。
祖父の長女(僕の伯母)は、自虐的な教育を受けた第一世代で、父親への反発から左翼の組合活動に没頭。その娘(僕の従兄弟)は、祖父のことを「悪鬼のような日本軍のひとり」として軽蔑していました。
伯母や従兄弟のそういった思い込みに、僕は強い違和感を抱いて育ちました。
大学生のころ、小林よしのりさんの『戦争論』が話題となり、『新しい歴史教科書をつくる会』の活動が始まりました。
ただ、大学ではそういうことを話題にできない雰囲気がありました。
ある日、勇気を出して、いわゆる従軍慰安婦の問題に疑問を投げかけたら、同級生は激高して「君とは友達になれない!オモニがかわいそうじゃないか!」と怒鳴りつけてきました。
日本でトップを争う国立理系大学の学生が、理性的な議論をかなぐり捨てて感情で攻撃してくる様は、一種のカルトを思わせました。
ちょうど同時期に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こったこともあり、エリートと呼ばれる人は必ずしも理性を持ち合わせているわけではなく、恐ろしいほど洗脳されやすいことを知りました。
大学を卒業後、僕はメディア系の仕事に就き、新聞社やテレビ局の多くの人が「なんとなく左翼」であることが分かりました。
報道機関が反体制になるのは必然としても、「日本は悪い国だ」「軍隊を持ったら戦争国家になる」「中国や韓国・朝鮮には謝罪し続けなければならない」という思い込みは、理性的とは思えませんでした
事程左様に、僕たちが生きる現代日本には、強烈な自虐意識が染みいついているのです。
決して「国家バンザイ」の本ではない
百田さんはアンチから「右翼」というレッテルを貼られますが、僕にはそれが非常に薄っぺらな決めつけに思えます。
なぜなら、第11章『大東亜戦争』において、百田さんは敗戦に至る戦略上の失敗について厳しく指摘しているからです。
戦争の重要な目的であった石油確保のためにインドネシアを攻略したにもかかわらず、石油輸送船の護衛を軽視し、民間船を半分近く失ったこと。作戦の立案において最悪のケースを想定せず、極めて甘い見積もりで戦闘に突入したこと。情報の大切さを理解せず、ガダルカナルをはじめとする戦場でおびただしい人的被害を出したこと…
他にも、これでもかというほどに日本軍の無為無策が指摘され、読んでいて胸が苦しくなるほどでした。
百田さんは、心に血の涙を流しながら書いたことでしょう。
そういう意味で、『日本国紀』は戦争を賛美するような本では決してなく、日本人に欠けている点についてもフェアに取り上げています。
すぐに平和ボケに陥る日本人への警鐘
日本人の決定的な弱点として、全編を通じて百田さんが警鐘を鳴らし続けているのが、すぐに平和ボケに陥ってしまう悪癖です。
これは日本人の穏やかさ、優しさの裏返しでもありますが、危機管理とは何か、自国を守るとはどういうことかを、すぐに忘れてしまうのは大きな欠点と言えます。
現代の日本もまさに危機の中にいるのに、それを語ることさえ許さない空気があります。
平和安全法制や特定秘密保護法という、自立した国家ならば当然持っていなければならない最低限の法律について、国会では野党が議論を拒否し、議事堂の外では狂ったようなデモが行われました。
スパイ防止法に至っては、まだ俎上にも上がらず、国家の機密情報も科学技術も隣国によって盗まれ続けています。
それでも、日本人の平和ボケは治りません。この異常さはどこから来ているのか。
『日本国紀』を読むことで、戦後のGHQによる宣伝活動とコミンテルンによる工作活動の成果であるとともに、日本人のもともと持っている性質であることがよく分かりました。
日本が自立した国として世界平和に貢献していくために、僕たちは歴史から学ばなければなりません。『日本国紀』はそのきっかけになる本だと思います。
戦後の洗脳教育は本当に根深い
それにしても、『日本国紀』に対するアンチによるバッシングは、背筋が凍るようなものがあります。
内容に対する議論ではないのです。
本質ではない部分をあげつらい、小さなミス(実際に複数のミスがあり著者も認めている)をもって全体を否定するという、野蛮なやり方をしています。
多くの著名人も躍起になってSNSなどで騒いでいますが、論戦を挑むわけではなく、読者を誹謗したり、書店に対して不買運動をちらつかせるといった卑劣な投稿ばかりです。
そういった言葉に接していると、戦後の洗脳教育の根深さに暗澹たる気持ちになります。
そんな不毛なバッシングの一つが「コピペ騒動」です。
「コピペ」に問題はあるのか?
あるサイトは、『日本国紀』にウィキペディアなどからのコピペ(無断転載)があるとして、執拗に指摘しています。
古事記や日本書紀などの現代語訳や、外国人の書き残したものの日本語訳については、確かに著作権に抵触する可能性はあります。ただし、誰が訳しても同じような訳文になるケースに関しては、著作物にあたるかどうかの線引は簡単ではありません。
ウィキペディアに関しては、歴史的事実や科学的事実についての記述には、そもそも著作権は適用されません。
著作物とは「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう」(著作権第二条一項)と定義されます。
歴史的事実には著作権は発生しないので、たとえコピペであっても問題はありません。
僕は理系の修士課程を出ていますが、学術論文を書く際、研究の概要をまとめる部分は必然的にほぼコピペの継ぎ接ぎになります。これを咎める人はいません。当たり前なのです。
「コピペだ!」と嬉々としてあげつらう人たちは、何も生み出してはいません。一人の作家が命を削った著作を、ただ貶めているだけです。
百田さんと違う主張がしたいなら、そんな虚しい作業に邁進せず、自分で書くべきです。
えいぷりお的まとめ
こうして書きながらも、僕は怖くて震えています。
こんな弱小サイトなど相手にされることはないとは思いますが、それほどまでにバッシングする人たちの攻撃性は常軌を逸しているのです。
ですが、やはり僕は『日本国紀』を支持します。不毛なバッシングに屈せず、もう新たな著作に取り掛かっている百田尚樹さんを応援したいと思います。
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