こんにちは!奈良が大好きな、えいぷりおです。
奈良を代表するお寺のひとつ、興福寺(こうふくじ)で、2018年10月7~11日の5日間にわたって大規模な法要が行われました。
お寺の中心である中金堂(ちゅうこんどう)が、およそ300年ぶりに再建され、それを祝う落慶法要(らっけいほうよう)が盛大に行われたのです。
僕は幸運なことに、地元の知人にお誘いいただいて、この歴史的な法要に参加することができました。
この記事では、その様子をレポートします。
興福寺・中金堂の歴史を簡単に説明するよ
最初に簡単に興福寺の歴史を説明しますね。
作られたのは和銅3年(710年)です。
710年と言えば「なんと(710)きれいな平城京」という語呂合わせで覚えた人も多いのではないでしょうか。
そう、平城京に都が置かれ、奈良時代が始まった年です。
興福寺は奈良時代の始まりとともに創建されたお寺なのです。
全盛期は数千人のお坊さんがいたとか。
ですが、度重なる火災で、焼失と再建を繰り返してきました。
お寺の中心である中金堂(ちゅうこんどう)は、なんと7回も火事で焼け落ちています。
最後に焼失したのは1717年。江戸時代ですね。
当時はお金がなかったらしく、創建当時の規模を保つことができず、サイズを小さくした仮金堂(かりこんどう)しか作ることができませんでした。
(引用:興福寺)
こちら ↑ が、仮金堂。かなり小さく、簡素なお堂ですね。
仮金堂は2000年に役目を終えて解体され、ようやく2018年10月に中金堂が創建当時の規模そのままに再建されました。
5日間にわたった盛大な落慶法要
落慶法要(らっけいほうよう)とは、お寺の新築や修理の完成を祝って行われる法要です。
興福寺・中金堂の落慶法要は5日間にわたる大規模なもので、2018年10月7日~11日にかけて行われました。
僕が参加させていただいたのは3日目の10月8日です。
法要が始まる前に少し写真を撮ることができました。
こちら ↑ が、再建された中金堂です。会場の外から撮影した写真ですが、かなり巨大なお堂であることが分かります。
会場に入ると、中金堂の前に約3000席のパイプ椅子が並べられていました。
初日の10月7日には、3000人を超える人が集まったそうです。
お堂は五色の幕で飾られ、華やかに彩られていました。
屋根から下がっている五色のひもは、鴟尾(しび)と呼ばれる飾り(鳥の尾の形をしている)に結び付けられています。
法要初日の最初に、白い布に包まれていた鴟尾が、五色のひもを引っ張ると姿を現すという儀式が行われたそうです。
東の方角を向くと、有名な東金堂(とうこんどう)と五重塔が見えます。
法要は朝10時スタートだったので、東の方角を撮影すると、こんな感じ ↑ で朝日を背負って逆光になりました。
お堂の前で、ひときわ目をひいたのがこちら ↓ の大太鼓(だだいこ)です。
↑ 龍があしらわれ、金色の太陽が輝く、東側の大太鼓。
↑ 鳳凰があしらわれ、銀色の月が輝く、西側の大太鼓。
これら二つの大太鼓は、すぐ近くに位置する春日大社から持ち込まれたものです。
高さは6メートルもあり、宮内庁が所蔵するものよりも大きい、日本最大のものだとか。
大太鼓は雅楽の演奏で使われるのですが、その響きはズシンと腹の底に響きました。
法要では、雅楽・舞楽が披露されたり、声明(しょうみょう)という仏教の歌が歌われたり、お能が捧げられたりしました。献花、献茶も行われ、全体で2時間ほどの内容でした。
ただ、法要の間は写真の撮影を遠慮しましたので、お見せできる写真がありません。
その代りに、初日の法要の様子が産経新聞の動画にあったので、ご紹介します。
僕が参加した3日目も、内容的には似たような感じでした。
ちなみに、初日の10月7日は30度を超す暑さ。僕が参加した3日目も27度ほどの快晴で、すっかり焼けてしまいました。
春日大社や東大寺などが法要に集まった
僕が参加した3日目の10月9日は、興福寺のお坊さんに加えて、東大寺、西大寺、法隆寺、薬師寺、唐招提寺という南都を代表するお寺のお坊さんたちが大集合。
合同で声明(しょうみょう)を歌い、お経を上げました。
宗派の違いを超えてお祝いにかけつけるなんて、素敵ですよね。
ゆったりとした声明を聞いていると、1300年前の天平文化が花開いた時代に誘われるようです。
このような独自の文化が脈々と受け継がれてきた日本という国を、改めて誇らしく思いました。
興福寺の貫主・多川俊映さんの再建への情熱
300年間もできなかった中金堂の再建を成し遂げるには、大変な苦労があったはず。
実現したのは、興福寺の貫主(かんす・一番えらいお坊さん)多川俊映さんの並々ならぬ情熱があったからです。
(引用:巡る奈良)
多川さんは、興福寺創建1300年を記念して2010年に開催された「国宝 阿修羅展」で全国に阿修羅像ブームを巻き起こしたことでも知られています。
幼い頃、荒れ果ててしまった興福寺を見て哀しかったと語る多川さん。
「自分の代で天平の頃の美しい伽藍を復元する!」
と心に誓い、境内の整備に邁進してきたそうです。
巨大な木造建築を支える柱には、良質な太い木材を探さなければなりません。現代の日本には、そのような木材は残っておらず、多川さんは、アフリカはカメルーンから輸入することを決断!
壮大な発想力と実行力で、この大事業を成し遂げたんですね。
今回の落慶法要でも、多川さんは中金堂再建への思いを語っておられました。
こちら ↓ の本には、再建までの25年間の歩みが詳細に描かれていて、おすすめです。
えいぷりお的まとめ
僕は奈良が大好きです。
京都よりも歴史が深いことはもちろん、のんびりとした雰囲気と商売っ気のない感じが、自分の肌に合っている気がして…
これまで何度か興福寺を訪ねたことはありましたが、中金堂の周囲は何年も工事中の状態が続いていました。
それが今回、工事の囲いがはずされ、301年ぶりに創建当時の姿を表したのです。
壮大な落慶法要は、もしかしたら600年以上ぶりだったのかもしれません(その前の大規模な焼失が1300年代~1400年代なので)。
一生のうちに、このような貴重な機会に立ち会うことができ、本当に幸運でした。