大作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の生涯をたどるシリーズの第7回は、18~21歳までのボンでの最後の日々を見ていきます。
この時期にも彼は多くの重要な出会いに恵まれます。切ない初恋も… ひとつひとつの経験がウィーン留学への助走となっていきます。
▼前回「〈16~18歳〉モーツァルト訪問、母親との死別、新たな思想との出会い」はこちら。
【ベートーヴェンの生涯6】〈16~18歳〉モーツァルト訪問、母親との死別、新たな思想との出会いヴァルトシュタイン伯爵との出会い
1789年、18歳のルートヴィヒは、その後の人生に大きく関わる重要な青年貴族と出会います。
フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵(1762~1823)です。
彼は、ケルン選帝侯マクシミリアン・フランツからドイツ騎士団の騎士(ナイト)に叙せられ、1788年にボンに赴任しました。
▼当時26歳。モーツァルトに心酔し、自らもピアノや作曲を手掛けるほどの音楽通でした。
彼は8歳年下のルートヴィヒに出会うと、すぐにその才能に惚れ込み、親しい友人になります。互いの家を行き来して合奏を楽しむこともありました。
当時のルートヴィヒの状況は悲惨で、16歳で最愛の母を失ってから、父はますます酒浸りになり、2人の弟も抱えて極貧のどん底でした。
ヴァルトシュタインはそんな彼を助けようと、新しいピアノをプレゼントするなど支援を惜しみませんでした。
皇帝ヨーゼフ二世葬送カンタータ
ヴァルトシュタインは文化活動にも積極的で、「読書クラブ」の中心メンバーでした。
読書クラブとは、フランス革命の原動力ともなった啓蒙思想の普及をはかる勉強会で、ルートヴィヒの恩師ネーフェ(第4回)やフランツ・リースなども参加していました。
1790年2月に、ケルン選帝侯マクシミリアン・フランツ(第6回)の兄で、オーストリア皇帝のヨーゼフ二世が亡くなったとき、ボンの読書クラブで追悼集会を行うことになりました。
19歳のルートヴィヒは、追悼のためのカンタータを委嘱され、「皇帝ヨーゼフ二世葬送カンタータ」を作曲します。
残念ながらこの曲は、追悼集会では「諸事情により」演奏されませんでした。
しかし幸運なことに、ボンに立ち寄ったハイドン(1732~1809)の目に留まり、2年後のウィーン留学へとつながることになります。
この曲は長年眠っていましたが、100年近く経った1884年にようやく初演され日の目を見ます。
ベートーヴェン作品全集の楽譜にも収録され、後世の音楽家の目にも触れることになりました。
はるか後輩にあたるブラームス(1833~1897)は、この曲を見て次のように語りました。
「楽譜に名前が書かれていなかったとしても、他の名前は想像できないだろう。徹頭徹尾ベートーヴェンだ。
美しくも高貴な悲哀、感情と想念の荘重さ、緊張感、激しさに近い表情-
それらは後年の作品に見られ、関連付けられるものである」
▼皇帝ヨーゼフ二世葬送カンタータ WoO 87。ジャン=ポール・プナン指揮、クラクフ・フィルハーモニー管弦楽団による演奏です。
レオポルト二世即位カンタータ
その半年後、オーストリア皇帝にヨーゼフ二世の弟であるレオポルト二世が即位することになり、ルートヴィヒは「レオポルト二世即位カンタータ」を作曲します。
この曲も演奏されることはありませんでしたが(理由は不明)、声楽付きの管弦楽曲を2曲も書き上げたことは、ルートヴィヒに大きな自信を与えました。
▼レオポルト二世即位カンタータ WoO 88。同じくジャン=ポール・プナン指揮、クラクフ・フィルハーモニー管弦楽団による演奏です。
ヴィルヘルミーネとの初恋
19歳のルートヴィヒは、ある女性と出会い、初めての恋をします。
相手は、マリア・アンナ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヴェスターホルト(1774-1852)という4歳年下の少女でした。
▼ヴィルヘルミーネは当時15~16歳。ブロイニング家(第5回)で知り合い、ルートヴィヒは彼女にピアノを教えることになりました。
彼女の家はルートヴィヒを歓迎し、いつも好意的に迎え入れてくれました。
父親はファゴット、兄はフルートを演奏する音楽一家で、ルートヴィヒは彼らのためにピアノ、フルート、ファゴットのための三重奏曲を作曲しています。
▼ピアノ、フルート、ファゴットのための三重奏曲 WoO37。バレンボイム、デボスト、セネダートによる演奏です。
ルートヴィヒとヴィルヘルミーネは、お互いに思いを寄せあっていましたが、二人の身分はあまりに違い過ぎました。彼女の家は、宮廷の要職を務める男爵家だったのです。
決して結ばれることのない恋に打ちひしがれるルートヴィヒ。
オーケストラの同僚ベルンハルト・ロンベルクは後年、二人の関係を「ウェルテルのような愛」と語りました。
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』は、禁断の恋のために自殺した青年の純愛物語。ルートヴィヒがこの恋にどれほど深く悩んでいたのかが分かります。
そんな中で作曲されたのが、歌曲「嘆き」でした。絶望する青年の心情を詠んだ繊細な詩が、心に沁み入るような美しい旋律で歌われます。
▼歌曲「嘆き」WoO 113。マティアス・ゲルネの滋味あふれるバリトンが胸を打ちます。
▼マティアス・ゲルネのベートーヴェン歌曲集のCD。交響曲などとはまったく違うベートーヴェンの一面に触れることができます。
彼女は18歳で別の男性と結婚。ルートヴィヒがウィーンに旅立つ半年前のことでした。
彼女は4人の子供の母となり、優れたピアニストとしても活躍しました。
その一方で、ルートヴィヒが贈った楽譜を、生涯大切に持ち続けました。
それらが公表されたのは、彼女が亡くなってから36年後の1888年のこと。
彼女の持ち物の中には、楽譜の他に、ルートヴィヒが贈ったカードが含まれていました。
カードには、次のようなフランス語の詩の切り抜きが貼られていました。
人生には変わらぬものなどない
すべては時と共にほろびゆき
変わることなき友もまた稀だだが最愛の友よ!
あなたのために
わが心は決して変わることなく
あなたを愛し続けるだろう
ウィーンへの留学が決まる
1792年7月、ハイドンがロンドンからの帰り道に、再びボンに立ち寄ります。
▼フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1739~1809)この時53歳。エステルハージ家の宮廷楽長を引退し、1年半におよぶ最初のイギリス訪問で大成功を収めた帰り道でした。
2年前、ロンドンへの往路でボンに立ち寄り、ルートヴィヒの「ヨーゼフ二世葬送カンタータ」を高く評価していたハイドン。
今回の訪問では、恩師ネーフェと親友ヴァルトシュタインの尽力によって、ルートヴィヒが給費留学生としてハイドンの弟子になることが正式に約束されたのでした。
4ヶ月後の1792年11月初旬、21歳の終わりに、ついにルートヴィヒは生まれ故郷のボンを離れ、ウィーンへと旅立ったのです。