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【ベートーヴェンの生涯4】〈10~13歳〉恩師ネーフェとの出会い、12歳で最初の作品を出版

13歳のベートーヴェン肖像

大作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の生涯をたどるシリーズの第4回は、恩師ネーフェとの出会いと、12歳で初めて出版した作品についてお話しましょう。

▼前回「〈少年時代〉誕生~7歳でのデビュー・コンサートの失敗」はこちら。

ベートーヴェン幼少期 最初のレッスン【ベートーヴェンの生涯3】〈3~10歳〉幼少期から少年時代 7歳でのデビュー・コンサートの失敗

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少年ルイは作曲家になりたかった

前回と同じように、少年時代のベートーヴェンのことを、当時の呼び名であったルイと記すことにします。

ルイは7歳のときに父親ヨハンによって企画されたケルンでの演奏会に失敗し、ようやく父以外の教師から音楽を学ぶ機会を得ました。

宮廷音楽家からピアノを習ったり、母親の遠縁にあたるヴァイオリニストから弦楽器を習ったりして、演奏家としての技術は十分に身につけていきました。

でも実は、彼が本当になりたかったのは作曲家でした。

ルイが10歳のとき、作曲を本格的に教えてくれる理想的な先生が登場します。

1781年に宮廷オルガニストとしてボンに赴任した、ネーフェという音楽家でした。

作曲家クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ

Christian_Gottlob_Neefe ベートーヴェンの恩師ネーフェ

少年時代のベートーヴェンに大きな影響を与えることになる音楽家、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ(1748~1798)の人生について触れておきましょう。

ネーフェは、ドイツ東部にあるケムニッツという町で生まれます。幼少から音楽の教育を受け、12歳で作曲を始めたといいます。

ライプツィヒ大学では法律を学びましたが、再び音楽の道に戻り、28歳で劇団の指揮者に就任。オペラ作曲家としても活躍しました。

31歳のとき劇団が破産しましたが、ボンの劇場に作曲家・音楽監督として招かれます。

そして、33歳で宮廷オルガニストに任命されたのをきっかけに、当時10歳だった少年ルイに作曲を教えることになりました。

彼はその後10年以上ボンに住み、成人したベートーヴェンのウィーン留学を助けるなど、愛弟子をサポートし続けました。

ベートーヴェンがボンを去った後、46歳のときにフランス軍の進出によって職を失います。

48歳でドイツ東部のデッサウという町に移り、劇団の音楽監督に就任。50歳を迎える1週間前に、この地で亡くなりました。

▼ネーフェ作曲「幻想曲」。古風な作風の中に自由な羽ばたきを感じさせます。

最初の課題はバッハの平均律

ネーフェが、10歳のルイに最初に与えた課題は、平均律クラヴィーア曲集でした。

これは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)が残した、音楽史に燦然と輝く金字塔です。

当時のルイは、断片的な知識をたよりに自己流で作曲を試みていました。ネーフェは、そんな彼を正しい道に導こうとしたのでしょう。

この時期にバッハを徹底的に学んだことで、彼は作曲家としての揺るぎない土台を築くことができたのです。

宮廷の仕事の代役が少年を鍛え上げた

ネーフェは宮廷オルガニストと掛け持ちで劇団の音楽監督も務めており、時々ボンを離れることがありました。

留守を預かってオルガニストの代役を務めたのが、まだ11歳のルイでした。

12歳になったばかりの冬には、オーケストラのチェンバロ奏者も任されます。指揮をしながら、チェンバロの即興演奏もこなさなければならない難しいポジションでした。

こうした現場を踏むことでルイは鍛え上げられ、複雑に入り組んだスコアを初見で演奏できる能力を身に付けていきました。

最初の作品「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲」

12歳になる年、ネーフェはルイに作曲の課題を出しました。

エルンスト・ドレスラーという当時のシンガーソングライターが書いたハ短調の行進曲をもとに、変奏曲を作るという課題でした。

ルイは見事に独創的な作品を書き上げます。それは、後に生み出される偉大な作品の片鱗を感じさせるものでした。

感銘を受けたネーフェは、すぐにマンハイムの出版社に掛け合います。

こうして、ルイの最初の作品ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲は、世に出ることになったのです。

▼初版の楽譜の表紙。フランス語で「10歳のアマチュア音楽家、ルイ・ヴァン・ベートーヴェンによる」と書かれています。

Nine Variations for Keyboard on a March by Dressler「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲」初版の楽譜表紙

年齢が実際よりも若く記されているのは、7歳のデビュー・コンサートで息子を神童として売り出そうとして、父ヨハンが年齢詐称をした名残だと考えられます。

▼ミハエル・プレトニョフによる「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲」。叙情的で瑞々しい演奏です。

▼プレトニョフの2枚組のCD。ベートーヴェンの若き日の作品が収録されています。

初めて音楽雑誌に掲載される

ルイが12歳のとき、音楽雑誌「マガツィーン・デア・ムジーク」に初めて記事が載りました。

ルイ・ヴァン・ベートーヴェンは、11歳(実際は12歳)にして、きわめて有望な才能ある少年である。

彼は鍵盤楽器を非常に巧みに、かつ力強く演奏し、特に初見の読譜力に優れている。

彼は、ネーフェ氏が課したバッハの平均律クラヴィーア曲集を主として演奏する。それは、我々の芸術の疑いなく最上のものだ。

ネーフェ氏は職務の許すかぎり、彼に通奏低音を教え、作曲の訓練も行い、また自信をつけさせるために彼が作曲した「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲」をマンハイムで出版させた。

この若き天才は、留学させるための援助に値する。彼がこのまま進歩を続ければ、必ずや第二のモーツァルトになるであろう。

(1783年3月2日付)

3つの選帝侯ソナタ

12歳のルイは、ケルン選帝侯マクシミリアン・フリートリヒ(祖父を宮廷楽長に抜擢してくれた人、第1回を参照)に、3つのピアノ・ソナタを捧げています。

このころの作品は、まだ作品番号(Op.)は付けられておらず、あまり認知されていませんが、清々しく美しい作品です。

参考に動画のリンクを貼っておきますので、ぜひ聴いてみてください。

▼ピアノ・ソナタ 変ホ長調 「選帝候ソナタ第1番」 WoO 47。チェンバロによる響きを楽しめます。

▼ピアノ・ソナタ ヘ短調 「選帝候ソナタ第2番」 WoO 47。前出のミハイル・プレトニョフによる演奏です。

▼ピアノ・ソナタ ニ長調 「選帝候ソナタ第3番」 WoO 47。ウィーン三羽烏の一人、イェルク・デームスの演奏です。

13歳のころのルイの面影

▼13歳のころのルイを描いたとされる肖像。

13歳のベートーヴェン肖像

ボンの研究機関「ベートーヴェン・アルヒーフ」は、この肖像画を本物と認めていませんが、面影は感じられますよね。

10歳からネーフェの指導のもと、音楽の才能を開花させはじめたルイ。

彼は恩師への感謝を忘れませんでした。この肖像からおよそ10年後、留学先のウィーンから次のような手紙を送っています。

いつの日か、私が偉大な人間になることがありますなら、その成功は先生のおかげです。(1793年)

次回「〈思春期に出会った親友〉医師ヴェーゲラーとブロイニング家の姉弟たち」はこちら。

ブロイニング家 外観【ベートーヴェンの生涯5】〈思春期に出会った親友〉ヴェーゲラーとブロイニング家の姉弟たち

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