大作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の生涯をたどるシリーズの第3回は、彼の誕生から10歳ごろの少年時代までです。
父親からの常軌を逸した音楽教育、7歳でのコンサート、そしてその後の成長についてお話しましょう。
▼前回「〈両親〉父ヨハンと母マリア・マグダレーナ」はこちら。
【ベートーヴェンの生涯2】〈両親〉父ヨハンと母マリア・マグダレーナ ルートヴィヒの誕生3歳で祖父ルートヴィヒと死別
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは少年時代、「ルイ」を呼ばれていました。
ですので、ここでは彼のことを「ルイ」を記すことにします。
ルイが3歳になったばかりの1773年12月24日、大好きだった祖父が脳卒中で亡くなります。
宮廷楽長だった祖父のことを、ルイは敬愛していました。成長の過程で、母親から祖父の話を熱心に聞き出そうとしたといいます。
▼祖父ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1712~1773)。享年61。実務に長け人望もありました。詳しくは第1回へ。
祖父の死は、ベートーヴェン一家に暗い影を落とします。父ヨハンが酒に溺れ、ルイに厳しくあたるようになったのです。
父親ヨハンが酒に溺れた理由
父親ヨハン(1740~1792)は、24歳で宮廷音楽家になり、27歳で結婚。30歳でルイが誕生しました。
父が亡くなったとき、彼は33歳。自分が後継者として宮廷楽長に就任できると甘い期待を抱いていました。
しかし、そのアテははずれてしまいます。
ベートーヴェン研究の第一人者、青木やよひさんは、著書『ベートーヴェンの生涯』の中で、ヨハンの性格について、次のように分析しています。
彼には、有名人の子弟にありがちのことだが、自己省察能力や現実認識に欠けるところがあったに違いない。気の弱さと過剰な自負心が複雑にからみあった、いわゆるコンプレックス型の人物だったと考えられる。
昇進のアテがはずれ、わずかな給料で妻子を養わなければならない惨めさ。
アルコール依存症で修道院の施設に入院していた母親のことも負担になっていたかもしれません(母親は2年後の1775年に施設で死去)。
こうした現実から逃げるように、ヨハンは酒に溺れるようになっていきます。
そんな中で彼が目をつけたのが、息子ルイの音楽の才能でした。
息子ルイへの暴力的な音楽教育
ヨハンはルイが4歳のころからピアノやヴァイオリンを教え込みましたが、そのやり方は常軌を逸していました。
酔っ払って深夜に帰宅しては寝ているルイを叩き起こして朝まで練習させたり、練習の態度が気に入らないと、暴力を振るい地下室に閉じ込めたりしました。
後にルイの親しい友人となる5歳年長のフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー(1765~1848)は、練習の様子を次のように語っています。
黒い髪と表情豊かな灰色がかった目をした、頑丈でずんぐりした小さな男の子がスツールに立ち、ピアノに指を伸ばしていた。父親の与えた練習をこなそうとして、泣いていました。
この暴力的な練習に耐え忍びながら、ルイは徐々に音楽的才能を見せはじめます。
それを見てヨハンは、息子を神童として世に売り出そうとコンサートを企画します。
7歳でケルンでのコンサートの出演
▼これが、1778年にケルンで行われたコンサートのチラシです。
本日、1778年3月26日、シュテルン通りの音楽アカデミーホールで、侯邸付テノール歌手ベートーヴェンは、二人の弟子を謹んでご紹介します。
一人目はアーヴェルドンク嬢、二人目は6歳の息子です。前者は美しいアリアの数々を、後者はピアノ協奏曲とピアノトリオを演奏します。(後略)
ここでヨハンは、息子を「6歳」と紹介していますが、実際には7歳3ヶ月でした。
この年齢詐称は、息子の神童ぶりをアピールするために年齢をごまかしたからだと考えられています。
しかし、ヨハンの目論見ははずれ、ルイの演奏は評価されませんでした。コンサートは失敗に終わったのです。
これは、ルイにとっては幸運なことでした。これを機に彼は新しい教師と出会い、世界を広げていくことになります。
広がっていくルイの音楽世界
ケルンでの演奏会の失敗を受けて、父ヨハンは考えを改め、自分以外の音楽家に息子の指導を任せるようになりました。
指導にあたったのは、宮廷の音楽家や、母親の遠縁にあたるヴァイオリニストなどでした。
それと同時に、ルイはただ受動的に教わるだけでなく、自ら世界を広げていきます。
憧れの祖父が弾いていたオルガンを学ぶために自発的に教会に通い、10歳で早朝ミサの演奏を任されるまでになります。
▼ルイがオルガンを演奏した聖レミギウス教会。両親が結婚式を挙げ、ルイが洗礼を受けた場所でもあります。
▼この教会は戦火で何度も焼け落ちましたが、オルガンの鍵盤部分は、ルイが演奏した当時のものが残っているそうです。
このころから作曲も始め、10歳で早くも作品を書いていました。
これを見た修道士が「ルイ、これはお前には弾けないね」と言うと、「もっと大きくなったら弾きます」と答えたといいます。
この時すでに、自分の演奏技術を超える創造力が、少年の中に芽生えようとしていたのです。
学校では劣等生だった
一方、勉強は苦手で、小学校に4年ほど通いましたが、かなりの劣等生でした。
同級生の証言によると、彼は授業中、白昼夢のように自分の世界に入り込んでしまうことが多かったそうです。
同級生と一緒に遊ぶことはなく、無口で社交性に欠け、音楽だけが友達のような子供でした。
10歳で小学校は退学。それより上の学校には通わせてもらえませんでした。
ライン川とジーベンゲビルゲの原風景
このころベートーヴェン一家が暮らしていたのは、ラインガッセ(ライン通り)24番。
最初の住まいだったボンガッセの家から、1774年ごろ(ルイが3~4歳のころ)に引っ越してきました。
▼ラインガッセの家(現存しない)。傾斜地に立っている様子から、ライン川のすぐそばだったことがうかがえます。
大家さんはパン屋のフィッシャー家で、ルイと同年代の子供たちがいました。
小学校では友達のいなかったルイですが、フィッシャー家の子供たちとは仲がよく、中庭の鶏小屋から卵やオンドリを盗んで遊ぶなど、いたずらっ子な面も見せました。
屋根裏のルイの部屋からは、すぐ裏手を流れるライン川と、その向こうに広がるジーベンゲビルゲの山々を望むことができました。
▼ジーベンゲビルゲはボンの南東に連なる7つの山々。現在は自然保護区に指定されています。
少年ルイの屋根裏部屋には大小ふたつの望遠鏡があり、そのひとつは20マイル(約32km)先まで見渡せるものでした。
彼は時が経つのも忘れて、雄大な大自然に見入っていたといいます。
少年の瞳に映ったこの光景が、将来、壮大な音楽を生み出す原風景になったのです。
▼次回「〈恩師〉作曲家ネーフェとの出会い、12歳で最初の作品を出版」
【ベートーヴェンの生涯4】〈10~13歳〉恩師ネーフェとの出会い、12歳で最初の作品を出版