こんにちは。そなてぃねです。
2021年10月29日、兵庫県立芸術文化センター 小ホールで行われた「名畑あゆみ ピアノ・リサイタル 精神の旅路 ~果てしない地平へ~」を聴きに行きました。
高校を卒業してからパリに渡り、その後ベルギーを拠点に活動している名畑さん。フランスで自ら音楽祭を立ち上げたり、作曲も行ったりと、独自の世界観を持つ音楽家です。
2年前に大阪のいずみホールでリサイタルを聴き、その堂々たる演奏が印象に残っていました。コロナ禍を経た今回の公演では、彼女の新たな境地を聴くことができました。
【演奏会の感想】名畑あゆみ ピアノ・リサイタル(2019年11月25日 いずみホール)演奏会の概要
【名畑あゆみ ピアノ・リサイタル
精神の旅路 ~果てしない地平へ~】
- スカルラッティ作曲
ソナタ イ長調 K.208 Longo238 - フランク作曲
前奏曲、フーガと変奏曲 ロ短調 作品18 - スクリャービン作曲
私が選んだ7つの小品 - リスト作曲
ソナタ ロ短調 S.178
〈アンコール〉
- シューマン作曲
ダヴィッド同盟舞曲集 第14曲 - 名畑あゆみ作曲
インド幻想曲
ピアノ:名畑あゆみ
2021年10月29日(金)19:00~
兵庫県立芸術文化センター 小ホール
そなてぃね感激度 ★★★★☆
名畑あゆみさんの経歴
名畑あゆみさんは大阪出身。高校を卒業後フランスに渡り、パリ国立地方音楽院を2011年に卒業。その後ベルギーのブリュッセル王立音楽院、ゲント王立音楽院などで研鑽を積み、現在はブリュッセル王立音楽院の作曲科に在籍されています。
特徴的な活動としては、2017年からフランスのクルーズ地方で自ら音楽祭を立ち上げたことが挙げられます。異国の町で新しいイベントを作り出すというのは、すごいことですよね。
2020年NHK FM番組『リサイタル・パッシオ』に出演。2017年よりフランスのクルーズ地方の支援によりMas Musici音楽祭を立ち上げ好評を博す。2019年奨学金を得て、ポルトガルのベルガイシュアートセンターにてマリア・ジョアン・ピレス氏のワークショップに参加。現在ブリュッセル王立音楽院作曲科に在籍、ピーター・スウィネン氏に師事。
フランカヴィッラ・フォンターナ(伊)国際音楽コンクール第1位、ブレスト国際コンクール(仏)第2位、ジャンルカ・カンポキアーロ国際音楽コンクール(伊)第2位、キョンソン国際ピアノコンクール(韓)第3位獲得。作曲では弦楽四重奏とソプラノと子供のコーラスのための曲が「Leonardo 4 Children」作曲コンクールで優勝し、2019年ベルギーのパレ・デ・ボザールとローマのパルコ・デッラ・ムジカ音楽堂で演奏される。また2021年ベルギーの現代音楽祭 Ars Musica から委嘱を受けた弦楽四重奏曲がキジアナ音楽祭(伊)で発表されるなど、国内外の音楽祭や企画で作品が取り上げられている。これまで芝令子氏、クラウス・シルデ氏、ジャン・マルク・ルイサダ氏、ジェルメーヌ・ドゥベーズ氏、パスカル・ロジェ氏、スンヨン・ハン氏、ドゥニ・パスカル氏、エピファニオ・コミス氏の各氏に師事。
全体を貫くテーマ「精神の旅路」
今回の公演の最大の特徴は、プログラム全体を貫くテーマを掲げた点だと思います。
「精神の旅路 ~果てしない地平へ~」
この副題への思いを名畑さんはプログラム・ノートで次のように語っています。
自由に旅することも許されず、閉塞感に息が詰まりそうな今だからこそ、音楽という翼に乗って、心だけは自由でありたい。そんな思いを込めて演奏したいと思います。皆様が、それぞれの精神の旅路を楽しんでいただけましたら、とても幸せです。
スカルラッティ、フランク、スクリャービン、リスト… という作品の並びは、一見すると脈絡がないようにも思えます。
けれど、ひとつのテーマを道しるべに聴き進めていくと、すべての楽曲が一本の道でつながっているように感じられるのです。
プログラム・ノートに書かれた「作品への思い」という文章も、単なる楽曲解説とは一味違う、旅のガイドブックになっていました。
作品の核心を丁寧に紡ぎ出す演奏
名畑あゆみさんの演奏には、誠実で丁寧な印象を受けます。作品の核心に近づこうとする健気で一途な姿勢が感じられるのです。
派手さはなく、華やかで大きな音が出るわけでもありません。技術的にも、もっと達者な人はたくさんいるでしょう。
しかし、彼女の演奏には、彼女にしか出せない、深い優しさがあります。「癒やし」よりももっと深い、「慈しみ」という言葉がしっくりくるような優しさが感じられるのです。
それはもしかしたら、妹さんを20代の若さで亡くしていることと関係しているのかもしれません。深い悲しみを知っている人だからこそ持つことのできる優しさのような気がします。
精神の奥深くへ分け入っていく旅
次の項目で、今回のリサイタルを追体験できるように全曲の参考動画のリンクを紹介しますが、ここでは僕の感想を記していこうと思います。
スカルラッティ 祈りのソナタ
長い精神の旅路は、スカルラッティの「ソナタ イ長調 K.208」から始まります。雲間から差し込む一筋の光のように、祈りに満ちた瞑想的な響きが、心の内側への扉をそっと開けるのです。
なんと優しさに満ちた音楽なのだろう…
精神の奥に分け入っていく旅には、きっと痛みも伴うことでしょう。
でも彼女は、この曲でコンサートを始めることで、「すべてを受け入れ、赦していきましょう…」と語りかけているように感じました。
ベルギーの冬の海 フランクの切ない響き
スカルラッティに続けて演奏されたのが、フランクの「前奏曲、フーガと変奏曲」。この曲について、名畑さんは「作品への思い」にこう書いています。
私はこの曲を弾いていると、ベルギーの冬の海のような寂しさと切なさを感じます。でも、深い海がすべてを包み込んでくれるように、寂しさの向こうには希望の光が感じられるのです。
フランクが生まれ育ったベルギーは、名畑さんが10年間暮らしてきた国でもあります。この作品にベルギーの冬の海を感じるというのは、名畑さんだからこその感性と言えるでしょう。
涙がはらはらとこぼれ落ちるような、あまりに切ない調べの向こうに、希望の光が見えるだろうか…
彼女の奏でる音に導かれるように、その光を探し求めながら聴いたのでした。
走馬灯のように スクリャービンの小品たち
次に演奏されたのは、スクリャービンの小品たち。ピアノのための数多くの小品から、名畑さんが深い思い入れを持つ7つの作品を選んで、心の赴くままに並べたのだといいます。
まるで人生の様々な場面が、走馬灯に映し出されていくように、表れては消えていく… 聴き手は自らの人生を重ね合わせながら聴くことになります。
「作品への思い」には、名畑さんがそれぞれの作品に感じる印象が短く記されていました。
〈作品2-2〉胸に秘めた傷を、限りない優しさが、そっと癒やしてくれる。
〈作品32-1〉絡まった糸を解きほぐすように、何かを探し求めて揺れ動く心。
〈作品32-2〉心の深部に強烈な光が差し込み、眩しさに戸惑いながらも歩き出す。
〈作品2-1〉 失ってしまったものへの追憶、寂寥感。
〈作品8-2〉渦巻く引力に抗えずに翻弄され、やがて安らぎへ。
〈作品8-5〉穏やかな川は、ときに激流になりながら、止まることなく流れてゆく。
〈作品8-12〉覚悟。厳しさも悲しみも、すべて受け入れて、ありのままに歩んでゆく。
1曲あたり2~3分の小品が花束のように集められた15分ほどの時間に、人生の様々な場面が凝縮しているようでした。
7曲目の〈作品8-12〉は、ホロヴィッツの名演奏で知られる激しい曲ですが、ここに「覚悟」というキーワードを持ってきたのは、慧眼だと思いました。
苦悩の先へ… リストのロ短調ソナタ
休憩を挟んで、後半はリストのロ短調ソナタ。1曲だけで勝負する潔さが、すごくいいと思いました。
というのも、2年前に彼女のリサイタルを初めて聴いた時、様式の異なる楽曲をただ並べたような構成になっていたことが、非常に惜しいと感じたからです。それぞれの作品の良さが打ち消し合っていたのです。
その点、今回のリサイタルでは、「精神の旅路」というテーマで全体を貫き、ロ短調ソナタに向かう大きな流れを作り出していました。この構成に、彼女の成長が感じられました。
とは言え、ロ短調ソナタは大変な難曲です。
正直に言えば、彼女の演奏には技術的に乗り越えなければならない課題が多く見られたのも事実です。危ない場面がいくつかありました。
しかし、それもまた「人生の出来事」のように感じられたのです。事故もあれば災害もある。思いがけない困難に打ちひしがれながらも、立ち上がり、歩き始めるのが人生なのだ… 懸命に難所に立ち向かう彼女の姿は、それを体現しているように見えました。
プログラム・ノートに「苦悩に満ちた長い楽想を抜けると、桃源郷を思わせる夢見るようなテーマが現れ、澄み切った空気とともに聴く者を別世界へといざなう」と書かれた中間部の美しさは、特に深く心に響きました。
心の傷を癒やすシューマンの調べ
アンコールに演奏されたのは、シューマンのダヴィッド同盟舞曲集から第14曲でした。
あまりに美しい、胸を締め付けられるような調べ…
ロ短調ソナタの峻厳な道のりを乗り越えて、この旋律を聴いたとき、心の傷を癒やされるような深い安らぎを覚え、涙がこみ上げてきたのでした。
彼女自身の旅の軌跡 インド幻想曲
そして最後に奏でられたのは、名畑さん自身が作曲した「インド幻想曲」。
5年前に妹さんを亡くした深い悲しみ… それを乗り越えるために一人で旅をした異国の美しい光景…
彼女の経験がそのまま音になったような、むき出しの魂のような作品でした。
長い長い精神の旅路の最後に、彼女自身の生々しい独白を聴いて、不思議な読後感が残りました。
もしかしたら、この曲がない方がキレイに終われたのかもしません。
けれど、これこそが、彼女にしか表現できない、一番伝えたいことだったのかもしれません。
リサイタルを追体験 全曲の参考動画
今回のリサイタルのプログラムを追体験できるよう、全曲の参考動画を並べておきます。
スカルラッティ/ソナタ イ長調 K.208
▼マリア・ジョアン・ピレシュの演奏。名畑さんの演奏は、これよりももっとゆったりしたテンポでした。
フランク/前奏曲、フーガと変奏曲 ロ短調 作品18
▼ニコライ・ルガンスキーの演奏。涙がはらはらとこぼれ落ちるような、切なく美しい旋律です。
スクリャービン/名畑さんが選んだ7つの小品
かぎかっこ内は、彼女がプログラム・ノートに記した各作品への言葉です。
▼前奏曲 作品2-2「胸に秘めた傷を、限りない優しさが、そっと癒やしてくれる」
▼詩曲 作品32-1「絡まった糸を解きほぐすように、何かを探し求めて揺れ動く心」、作品32-2「心の深部に強烈な光が差し込み、眩しさに戸惑いながらも歩き出す」鬼才イーヴォ・ポゴレリチの演奏。
▼練習曲 作品2-1「 失ってしまったものへの追憶、寂寥感」ホロヴィッツのライブ。すごい演奏です…
▼練習曲 作品8-2「渦巻く引力に抗えずに翻弄され、やがて安らぎへ」これもポゴレリチの演奏。
▼作品8-5「穏やかな川は、ときに激流になりながら、止まることなく流れてゆく」巨匠リヒテルのライブ録音のようです。
▼練習曲 作品8-12「覚悟。厳しさも悲しみも、すべて受け入れて、ありのままに歩んでゆく」ホロヴィッツの歴史的記録。これを超える演奏は今後も現れないでしょう。
リスト/ソナタ ロ短調
▼クリスティアン・ツィマーマンの演奏。磨き抜かれた音、妥協を許さない技巧、細部まで彫琢された構成… 圧巻の名演です。
シューマン/ダヴィッド同盟舞曲集 第14曲
▼アンドラーシュ・シフの演奏。ひとつひとつの音に、優しさとぬくもりが満ちています。
(第14曲の18:57から再生されます)
名畑あゆみ/インド幻想曲
彼女のYouTubeチャンネルを見てみましたが、残念ながらこの曲はアップされていませんでした。
あとがき
兵庫県立芸術文化センターの小ホールは、アリーナ型で客席数400ほどの、ピアノ・リサイタルにはちょうどいい空間です。
名畑さんの慈しみに満ちた音色は、円形の天井に向かって昇っていきました。
それはまるで、若くして亡くなった妹さんに届けるために奏でられているようでした。
名畑さんは、難関の国際コンクールで勝てるタイプの演奏家ではないかもしれません。しかし、彼女にしか奏でられない精神世界があります。そこに価値があると、僕は思うのです。
フランスのクルーズ地方で彼女が立ち上げたという音楽祭も、きっと町の人たちのための、あたたかい雰囲気のイベントなのだろうと思います。
これからは、作曲もできる彼女の感性を生かした、唯一無二のプログラムを楽しみにしています。
▼2年前に初めて聴きに行った名畑あゆみさんのリサイタルの感想はこちら。
【演奏会の感想】名畑あゆみ ピアノ・リサイタル(2019年11月25日 いずみホール)