こんにちは。そなてぃねです。
2021年5月16日、東京文化会館 小ホールで行われた「本山乃弘(もとやま・のりひろ)ピアノ・リサイタル ー情動との対峙ー」を聴きに行きました。
本山さんは、右手に難病の「局所性ジストニア」を患い、長いリハビリを乗り越えて両手での演奏に復帰した方です。
僕は2008年に初めて本山さんの演奏を聴き、誠実に紡がれた音楽に感銘を受けました。
あれから13年。より成熟した本山さんの演奏は、心の奥深くに響く感動的なものでした。
演奏会の概要
【本山乃弘 ピアノ・リサイタル ー情動との対峙ー】
- ベートーヴェン作曲
ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13「悲愴」
ピアノ・ソナタ 第18番 変ホ長調 作品31-3「狩」 - ラヴェル作曲
高雅で感傷的なワルツ - ショパン作曲
ノクターン 第17番 ロ長調 作品62-1
ノクターン 第18番 ホ長調 作品62-2 - スクリャービン作曲
ピアノ・ソナタ 第2番 嬰ト短調 作品19「幻想」
〈アンコール〉
- ショパン作曲
ワルツ 第9番 変イ長調 作品69-1「告別」
ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53「英雄」 - 高橋由紀 作曲
ふしぎなさんぽみち
2021年5月16日(日)14:00~
東京文化会館 小ホール
そなてぃね感激度 ★★★★☆
本山乃弘さんが歩んできた道のり
本山乃弘(もとやま・のりひろ)さんは1983年、長崎県五島列島の生まれ。今年38歳になります。
東京藝術大学に在学中、右手に局所性ジストニア(フォーカル・ジストニア)という難病を発症します。
この病気は一般にはあまり知られていませんが、実はかなり多くの演奏家が罹患していて、誰にも悩みを打ち明けられないまま廃業に追い込まれるケースも少なくありません。
症状は非常に奇妙なもので、日常生活にはまったく支障がないのに、演奏するときだけ意思に反して体の一部がねじれたり硬直したりします。ピアニストの場合、右手に発症することが多く、痛みがまったくないのも特徴です。
原因は解明されていませんが、過酷な練習の繰り返しが引き金となって、脳の神経回路に異常が生じると考えられています。
治療方法は確立されておらず、ボツリヌス毒素を注射して筋肉を弛緩させたり、脳の深部を電極で焼く方法が試されていますが、必ずしも効果が期待できるわけではなく、副作用に苦しむ例もあるといいます。
本山さんは、時間をかけてリハビリをする道を選びました。子供用の教則本をゆっくり弾くところからやり直して、一度壊れてしまった回路を作り直していったのです。何年もかかる、気の遠くなるような道のりだったことでしょう。
実は、僕の友人にも局所性ジストニアに苦しんだ演奏家がいて、一時期かなり調べたことがありました。その友人は結局、音楽の道は断念することになりました。そういう人が、世界中に数多くいるのです。
だから本山さんは、この難病と真正面から向き合って克服した、希望の象徴のような存在だと僕は思っています。
ピティナ・ピアノコンペティション、ベートーヴェン国際ピアノコンクール アジア、Pia-Conピアノコンコルディア、PIARAピアノコンクール、日本クラシック音楽コンクール、日本バッハコンクール、ソナタコンクール、全日本ピアノコンクールで審査員を務める。2019年ピティナ指導者賞受賞。同年10月4日(金)公開の映画「蜜蜂と遠雷」にて、高島明石役(松坂桃李氏)のピアノ演技指導を担当した。
1983年長崎県福江市(現 五島市)生まれ、佐世保市 出身。4歳よりピアノを始める。東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、並びに同大学音楽学部器楽科ピアノ専攻卒業。
パリ・エコールノルマル=アルフレド・コルトー音楽院の各課程を首席の成績で修めた後、同音楽院ピアノ専攻コンサーティスト(職業演奏家)高等ディプロムを審査員満場一致にて取得。同音楽院ペルフェクショヌマン課程修了。
ピアノを福田伸光、川口由紀子、今井顕、植田克己、故 フランス・クリダ、故 アルド・チッコリーニ、ポール・ブラシェーの各氏に、室内楽を故 ゴールドベルク=山根美代子、松原勝也の両氏に、歌曲伴奏をエリー・アメリンク、故 イェルク・デームス、フランソワ・ル・ルー、アンヌ・ル・ボゼック、ワルター・ムーア、スーザン・マノフ、イザベル・ガルシサンスの各氏に師事。
ソリストとして、日欧各地でリサイタルに出演する他、ポーランド国立クラクフ室内管弦楽団 “カペラ・クラコヴィエンシス”、福岡室内合奏団、佐世保市民管弦楽団、ラトヴィア国立交響楽団、九州交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、アルカス”キラッ都”オーケストラ、セヴェンヌ器楽合奏団等のオーケストラと共演。
ソロにとどまらず、器楽・声楽・合唱の伴奏や室内楽の分野でも、多くの共演者より信頼を得ている。
(公式ウェブサイトから引用)
心の奥深くに響く本山乃弘さんの音楽
本山乃弘さんの演奏は、心の奥にそっと光を当てるような、思いやりと優しさが感じられます。思慮深く謙虚な人柄が、音からにじみ出ているようです。
僕が初めて本山さんの演奏に触れたのは、2008年9月に東京文化会館 小ホールで行われた「絆(きずな)」と題する演奏会でした。これは、本山さんを含む東京藝術大学の同級生5人が、毎年続けてきたコンサートシリーズです。
当時本山さんは、まだ右手が完治していなかったようで、プログラムの半分は左手のための作品でした。
そんな中、1曲だけ両手で演奏したのが、ショスタコーヴィチの「前奏曲とフーガ 第4番 ホ短調」でした。深海の底に静かに沈んでいくような深遠な精神世界に圧倒されました。
あれから13年。本山さんの歩んできた日々に思いを馳せながら、今回のリサイタルを聴きました。
圧巻だったベートーヴェン「狩」
最初に演奏されたのは、有名なベートーヴェンのピアノ・ソナタ 第8番「悲愴」。少し固さが感じられ、楽器もまだ起きていないようでした。
それが一転、2曲目のピアノ・ソナタ 第18番「狩」になると、楽器が鳴り出して、充実した響きがホールを満たしていきました。
本山さんはプログラムノートに、この曲の印象を次のように記しています。
「子どものもつ純粋さや奔放さ、底無しのエネルギー、自然の中で遊びまわった記憶や、頭の中で膨らませるファンタジー、周りの家族や友達との間に流れる温かな時間や愛情…」
この言葉の通り、ひとつひとつの音たちが自由に遊びまわっているような、変化に富んだ表現を聴くことができて、本当に楽しい時間でした。
ラヴェル 軽やかに舞う音の花束
休憩をはさんで後半は、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」から始まりました。8つのワルツで構成された、さながら「音の花束」のような曲集です。
本山さんは東京藝術大学を卒業後、名ピアニスト、アルド・チッコリーニの導きでフランスに留学しています。最晩年の巨匠から学んだことが、きっとラヴェルの演奏に宿っていたことでしょう。
終曲のエピローグ、まどろみの中に落ちていくような気だるい感じなど、秀逸な表現でした。
ショパンからスクリャービンへ 内に秘めた情動
メインプログラムは、ショパン晩年の2つのノクターンと、スクリャービンの「幻想ソナタ」でした。
ラヴェルの音楽が非現実的な浮遊感を感じさせるものだったのとは対象的に、ショパンのノクターンには肉体的な情感が、たしかな手触りで感じられました。この鮮やかな対比には、ハッとさせられるものがありました。
ノクターン 作品62は、ショパンが36歳のときの作品。結核に侵され、死を予感していたはずなのに、この2つの作品には青春への憧れが溢れています。過ぎ去った若き日を、再び抱きしめようと手を伸ばすショパンの姿が見えるようで、涙がこみ上げてきました。
そして、ショパンから切れ目なく演奏されたスクリャービン。まるで続きの物語として書かれたかのような、自然な繋がりに驚きました。
「幻想ソナタ」について本山さんは次のように記しています。
「海になぞらえれば、幻想的にたゆたいながら一瞬の劇的なクライマックスをみせる第1楽章と、嵐吹き荒れ波立つような第2楽章」
この作品は、過剰なまでにデリケートで内向的だったスクリャービンが、内に秘めていた激情そのものだったように思えてきます。
本山さんが今回のリサイタルに「情動との対峙」というタイトルをつけ、丁寧な解説文を書いてくれたことで、新たな視点で音楽を捉えることができました。
アンコール 今まで聴いた中で一番好きな「告別ワルツ」
アンコールとして3つの作品が演奏されました。最初は僕の大好きな、ショパンの「告別ワルツ」。
本山さんの奏でるショパンは、感傷に溺れることなく、奇をてらうこともなく、誠実に語りかけてくるような音楽です。だからこそ、心のより深くに響いてくるのだと思います。
今まで聴いた中で一番好きな「告別ワルツ」だったと言っても過言ではないほど、本山さんの奏でる調べは、僕の心にそっと寄り添ってくれたのでした。
そして2曲目は「英雄ポロネーズ」。アンコールには贅沢すぎる選曲です。
演奏前にマイクを持って挨拶した本山さんは、この曲について次のように語りました。
「ただ華やかなだけではなく、作曲された背景を考えると、もっと深い内容がある作品。
特に中間部の左手がオクターブを連打するところは、広場に集った群衆が、一人また一人と歌い始め、ついには大合唱になっていく情景が描かれている。
いつかコロナ禍が明けて、マスクをとり、笑ったり歌ったりできる日が戻ってくることを願って、この曲を演奏したい」
明るく輝かしいイメージの「英雄ポロネーズ」ですが、本山さんの演奏は少し違っていました。あえて落ち着いたトーンで、華美にならぬよう注意深く演奏しているような印象を受けました。
そして最後に演奏されたのは、高橋由紀作曲「ふしぎなさんぽみち」という、1分ほどの小品でした。
「コロナで家に閉じこもり、一人でふさぎがちになっても、この曲を聴けば、どこにでも出かけて行けるような気持ちになれる」
本山さんはそう言って、この可愛らしい作品をプレゼントしてくれたのです。
緊急事態宣言下での開催は「苦渋の決断」
緊急事態宣言下で多くのイベントが中止される中、東京文化会館の判断で開催されることになった今回のリサイタル。
本山さんは「苦渋の決断だった」と言いました。「演奏会ができる!」という喜びよりも、「こんな時にやっていいのだろうか…」という悩みの方が大きかったのでしょう。
僕は、演奏家がこんな気持ちになる状況が、本当に悲しいです。
水際対策も医療体制を拡充する努力もせず、国民に我慢ばかりを強いる政府や自治体の長に、強い憤りを感じずにはいられません。
「自粛警察」が跋扈する殺伐とした世の中にあって、勇気をもって開催を決断した東京文化会館に敬意と感謝を述べたいと思います。
そして、悩みながらも、素晴らしい演奏で楽しい時間を与えてくれた本山乃弘さんに、心から拍手を送りたいと思います。
あとがき
東京文化会館に行くのは久しぶり。JR上野駅の公園口がきれいに整備されていたんですね。改札を出てすぐの横断歩道がなくなっていて、びっくりしました。
本当は終演後にゆっくり上野公園を散歩したかったのですが、翌日に仕事を控えていたので、まっすぐ帰ることにしました。またゆっくり来たいです。
本山乃弘さんが発症した局所性ジストニアですが、2009年にNHKで放送された「芸術劇場」という番組で、同じ病にかかり30年以上闘病した大ピアニスト、レオン・フライシャーの人生が特集されていました。
▼そのときの放送内容を書き起こした記事がありますので、ぜひ読んでいただきたいです。
【追悼】レオン・フライシャー 2009年12月4日放送 NHK「芸術劇場」を振り返る