大作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の生涯をたどるシリーズの第6回は、16歳から21歳までのボンでの最後の日々を見ていきます。
この時期に彼は、憧れのモーツァルトとの出会い、そして最愛の母親との死別という、人生の大きな出来事を経験します。
▼前回「〈思春期に出会った親友〉医師ヴェーゲラーとブロイニング家の姉弟たち」はこちら。
【ベートーヴェンの生涯5】〈思春期に出会った親友〉ヴェーゲラーとブロイニング家の姉弟たち16歳当時のルートヴィヒ
まず16歳当時のルートヴィヒが、どのような環境にあったかを見ておきましょう。
13歳で初めて宮廷から給料をもらう
ルートヴィヒは11歳のころから、恩師ネーフェの代理として、宮廷でオルガン奏者・チェンバロ奏者・オーケストラの指揮者などの役割を担っていました(第4回)。
ところが、これらに対して彼は何らの報酬も与えられていませんでした。
父親ヨハンは宮廷音楽家としての給料を得ていましたが、稼いだ金は酒に消え、家族は貧困のどん底にありました。
12歳のころに出会った友人ヴェーゲラーは、彼の窮状を少しでも救おうと、ピアノ教師のアルバイト先としてブロイニング家の姉弟を紹介したのでした(第5回)。
こうした状況を見かねた宮廷関係者の申し出によって、13歳の半ばからルートヴィヒに初めて給料が与えられるようになりました。
年収は100ターラー。当時の中流市民の平均年収が200~400ターラーだったといいますから、決して多い額ではありませんでした。
(父親にも200ターラーの年収がありましたが、ほとんど家に入れていなかったと思われます)
ケルン選帝侯マクシミリアン・フランツ
このころ、宮廷音楽家たちの雇い主であるケルン選帝侯が代替わりしています。
祖父ルートヴィヒを宮廷楽長に抜擢したマクシミリアン・フリートリヒ(第1回)が1784年4月に亡くなり、マクシミリアン・フランツ(1756~1801)が後継者としてボンに来たのです。
▼マクシミリアン・フランツの肖像。
彼はハプスブルク家の女帝マリア・テレジア(1717~1780)の末っ子で、オーストラリア皇帝ヨーゼフ二世の弟でした。
28歳の若き為政者は教育の振興に力を入れ、着任2年目の1786年にはボン大学を創設。芸術文化にも関心を持ち、国立劇場を設立しました。
こうした状況下で、16歳のルートヴィヒは重要な経験をします。
憧れのモーツァルトに会うため、一人でウィーンに行ったのです。
憧れのモーツァルトと会う
ルートヴィヒがウィーンを訪れたのは1787年の3~4月。16歳半ばのことでした。
この旅行に関しては記録が少なく、詳細は分かっていませんが、4月1日と25日にミュンヘンに宿泊したという宿帳が残っています。
おそらく4月1日が往路、25日が復路に立ち寄った痕跡だと思われます。
ミュンヘンを経由して960キロほどの道のりを、一人でウィーンに向かったルートヴィヒ。
移動手段が仮に四頭立ての馬車だったとすると、1日の移動距離は150キロほどでしょうか。片道で1週間近くかかる道のりです。
極貧だったルートヴィヒが旅費と滞在費をどうにか工面してウィーンを訪れた目的は、憧れだったモーツァルトに会うことでした。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)は、このとき31歳。
前年に歌劇「フィガロの結婚」がヒットするなど、売れっ子作曲家として名が知れ渡っていました。
弟子入り志願者も多かったでしょうから、16歳の無名の少年との一瞬の出会いが、モーツァルトの記憶に残らなかったとしても不思議ではありません。
後にモーツァルトの伝記を記したオットー・ヤーン(1813~1869)は、二人の出会いの真相を探ろうと精力的に取材し、次のようなエピソードを書き残しています。
ルートヴィヒは何かの曲を弾いた。だがモーツァルトはそれをこの機会のために準備された模範作品とみなし、いくぶん冷たい口調でほめただけだった。
そこで彼はモーツァルトに、即興のテーマを与えてくれるよう頼み、尊敬する巨匠の前とあって熱を込めて演奏した。
モーツァルトは次第に惹きつけられ、隣室にいる友人たちに黙って近づき、声を弾ませて言った。
「この青年に注目したまえ。彼はいずれ世界にその名を刻むだろう!」
(オットー・ヤーン著『モーツァルト』から引用)
▼ルートヴィヒとモーツァルトの出会いのシーンを描いたとされる2つの絵。
ルートヴィヒは、モーツァルトが自分をほめてくれたことを知らず、このときの思い出を、あまり語ろうとはしませんでした。
二人の出会いはこの一回限りで、レッスンを受けることもなく、ルートヴィヒは急いでボンに戻ることになります。
故郷の母が危篤だという知らせを受け取ったからです。
最愛の母親との死別
16歳のルートヴィヒに訪れたもうひとつの大きな出来事は、最愛の母親マリア・マグダレーナ(1746~1787)との死別でした。
ウィーン滞在中の彼のもとに、母の危篤を知らせる便りが届き、モーツァルトとの出会いもそこそこに、ボンに引き返すことになりました。
ルートヴィヒは母を心から慕っていました。
極貧の中にあって、いつも優しく聡明で、信仰深く真面目だった母。
酒浸りの父のせいで家庭がめちゃくちゃになっても、彼が道を踏み外さずにすんだのは、母を慕う気持ちがあったからでした。
母との少年時代の思い出
ルートヴィヒが大切にしていた、少年時代の母との思い出をひとつ紹介しましょう。
1781年の初冬、ルートヴィヒが11歳になるかならないかのころの話です。
母と二人でオランダへの船旅をした時のこと。
船上は凍てつくように寒く、冷え切った足を、母は優しくスカートの裾でくるんで温めてくれました。
…たったこれだけのささやかな出来事でしたが、少年の心に大切な思い出として深く刻まれたのでした。
母との死別の悲しみ
母マリアは肺結核に冒されていました。結核は当時、不治の病でした。
ウィーンからボンへと帰路を急ぐルートヴィヒのもとに、父から早く帰ってくるよう催促の手紙が次々に届きました。
旅の途中で金が底をつき、ミュンヘンの先のアウクスブルクで知人の家に立ち寄り、借金をしなければなりませんでした。
ようやく帰り着いたとき、母の容態は最悪でした。それから1ヶ月半ほど生死をさまよった末、母マリアは7月17日に帰らぬ人となりました。40歳でした。
16歳の少年にとって、母を失った喪失感は計り知れないほど大きなものでした。
旅の途中で金を貸してくれたアウクスブルクの知人に、後日こんな手紙を書いています。
彼女は善良そのもので、愛すべき母であり、最良の友でした。
あぁ!母の懐かしい名前を呼ぶことができ、その声を聞いてもらえたとき、私より幸せな人はいなかったでしょう。
いま私は、誰に向かってその名を呼びかければいいのでしょうか?
(1787年9月15日付 シャーデン博士への手紙から)
この手紙には「借りた金をまだ返すことができないので待ってほしい」とも書かれていて、当時の困窮ぶりがにじみ出ています。
(宮廷音楽家としての給料はウィーン行きの間は止められてしまい、復職するのに時間がかかったようです)
国立劇場のヴィオラ奏者に採用される
このように、16歳のルートヴィヒは、大金を費やして訪ねたモーツァルトには一回しか会うことができず、最愛の母を失い、生活はさらに困窮を極めるという厳しい状況にありました。
そんな中、君主マクシミリアン・フランツは、1788年に国立劇場を創設。
17歳のルートヴィヒは、オーケストラのヴィオラ奏者に採用されます。
これをきっかけに新たな友人との出会いも生まれました。
フルート奏者として採用されたアントン・ライヒャ(1770~1836)です。彼はルートヴィヒと同年で、ともに作曲家を目指す同志でもあり、無二の親友になりました。
▼ライヒャは後にパリ音楽院の作曲家教授となり、リスト、ベルリオーズ、グノー、フランクなどを育てました。
二人が所属したオーケストラの雰囲気を、当時の楽団員はこう証言しています。
「私達の間には最高のハーモニーが行き渡っていて、互いに兄弟のように愛し合っています」
この幸福な環境に4年間も身を置き、優秀な音楽家とともに、ヘンデルやバッハ、モーツァルトやハイドンなどの作品を演奏したことは、ルートヴィヒを大きく成長させました。
ボン大学 哲学科を受講
前述のように、マクシミリアン・フランツは1786年にボン大学を創設。学問の振興に力を注ぎました。
1789年度の哲学科の受講者志望名簿に、ルートヴィヒとライヒャの名前が揃って記載されています。
当時のボン大学では、哲学や人権に関する最先端の講義が行われていました。
18歳のルートヴィヒは、従来の価値観を打ち破る「自由・平等・友愛」といった思想に触れ、大きな影響を受けます。
そんな中、1789年7月14日にパリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃。フランス革命が勃発して王政が打ち倒されます。
ルートヴィヒは衝撃を受け、当時読んでいたシラーの詩「歓喜に寄せて」を音楽にしようと決意します。
その思いは35年の歳月を経て交響曲 第9番として結実し、1824年に53歳となったベートーヴェン自身の指揮で初演されることになるのです。
▼ボン大学はフランス軍がボンを占領した1798年にいったん閉鎖。1818年にライニッシェ・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学という名称で再開し現在に至ります(今も通称はボン大学)。
(大学HPから引用)
▼次回「〈18~21歳〉ボンでの最後の日々、ヴィルヘルミーネとの初恋」はこちら。
【ベートーヴェンの生涯7】〈18~21歳〉ボンでの最後の日々、ヴィルヘルミーネとの初恋