大作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の生涯をたどるシリーズの第5回は、思春期に出会った親友、ヴェーゲラーとブロイニング家について、お話しましょう。
▼前回「〈恩師〉作曲家ネーフェとの出会い、12歳で最初の作品を出版」はこちら。
【ベートーヴェンの生涯4】〈10~13歳〉恩師ネーフェとの出会い、12歳で最初の作品を出版ヴェーゲラーとの出会い
10歳のころ恩師ネーフェと出会い、父親から少し距離をおいたことで、音楽の才能を伸ばしはじめたルートヴィヒ。
そんな彼も思春期に差し掛かり、生涯の友人ができます。ルートヴィヒより5歳年上のフランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー(1765~1848)です。
出会ったころヴェーゲラーは17~18歳の医学生。後に優れた医師として活躍し、ボン大学総長や宮廷顧問官を歴任することになります。
ルートヴィヒにとって彼は兄のような存在でした。難聴に苦しんでいた30歳のころ、最初に悩みを打ち明けたのがヴェーゲラーだったのです。
ルートヴィヒがウィーンに移り住んだ後、ヴェーゲラーに宛てて書いた手紙に次のような言葉があります。
「ヴェーゲラー、子供のころから君が友達でいてくれたことが、私にとって唯一の慰めでした」
ベートーヴェンの死後、ヴェーゲラーは大作曲家との思い出を本に書き残しました(フェルディナンド・リースとの共著)。
ブロイニング家との出会い
ヴェーゲラーは、親しく出入りしていたブロイニング家に、若き作曲家としてルートヴィヒを紹介します。この出会いが、彼に大きな心の拠り所を与えることになります。
ブロイニング家には未亡人のヘレーネ・フォン・ブロイニング夫人、そしてルートヴィヒと同年代の4姉弟がいました。
・長女 エレオノーレ(1771~1841)
・長男 クリストフ(1773~1841)
・次男 シュテファン(1774~1827)
・三男 ローレンツ(1777~1798)
学校では友達ができず、無口で人を寄せ付けないところのあったルートヴィヒが、ブロイニング家の子供たちと接することで、ようやく心を開きはじめたです。
▼ヘレーネ夫人(1750~1838)。ルートヴィヒを我が子のように受け入れ、食事のマナーや礼儀作法を教えました。
ルートヴィヒが17歳で母親を亡くしてからは、ブロイニング家で過ごす時間がさらに多くなっていきます。
愛情に飢えていたルートヴィヒにとって、ブロイニング家は心から安らげる「第二の家」となっていったのです。
▼ブロイニング家の外観。今この場所はデパートになっているそうです。
ブロイニング家には哲学書や文学書、同時代のドイツ文学の書物が揃っていて、ルートヴィヒはここでゲーテやシラーの詩を知りました。
▼1782年当時を描いたブロイニング家の様子。左から夫人(32歳)、エレオノーレ(11歳)、クリストフ(9歳)、ローレンツ(5歳)、不明(44歳)、シュテファン(8歳)。
ここに12歳だったルートヴィヒが加わり、家族の一員として受け入れられたのです。
長女エレオノーレ・ブロイニング
ブロイニング家の長女がエレオノーレ・フォン・ブロイニング(1771~1841)でした。
彼女はルートヴィヒより半年ほど年下。ほぼ同い年でした。
ブロイニング家でルートヴィヒに与えられた役割は、エレオノーレ(と末っ子ローレンツ)にピアノを教えることでした。
つまり二人は師弟関係でしたが、長い付き合いの中で、より親密な友情を育んでいきました。
ルートヴィヒが21歳でボンを離れ、ウィーンに移り住む時には、次のような別れの手紙を彼女に送っています。
「あなた(エレオノーレ)が手作りしてくれたネクタイに、とても驚きました。うれしかったです。そして、悲しくなりました。わが友よ、今も変わらずこう呼ばせてください。あなたと母君のことは決して忘れません」
二人の間に恋愛感情があったとする説もありますが、そうではなく、大切な女友達だったというのが真実でしょう。
エレオノーレは30歳のとき、前述の医師ヴェーゲラーと結婚します。ルートヴィヒの親友だった二人が夫婦となり、生涯に渡って交流が続くことになります。
次男シュテファン・ブロイニング
(長男クリストフとルートヴィヒには、深い関係がなかったので省略します)
次男シュテファン・フォン・ブロイニング(1774~1827)もまた、ルートヴィヒにとって大切な友人となりました。
シュテファンとルートヴィヒは、一緒にヴァイオリンを学ぶ仲でした。
(ちなみに、ヴァイオリンの先生は宮廷音楽家フランツ・リース。その息子フェルディナンドは後にベートーヴェンの弟子となり、ヴェーゲラーとの共著で伝記を出版します)
ルートヴィヒは4歳年下のシュテファンを弟のように可愛がり、その誠実な人柄を愛しました。
ウィーンに移ってからは、同地に転勤してきたシュテファンと共同生活をしていた時期もありました(彼は軍に務める公務員だった)。
仲のよさが高じて大喧嘩をすることもありましたが、強い絆は生涯を通じて変わることがありませんでした。
1806年(ルートヴィヒ36歳、シュテファン32歳の年)に完成したヴァイオリン協奏曲は、シュテファンに捧げられています。
33歳で結婚したシュテファンが、たった7ヶ月で妻を亡くし、精神的に不安定になったことがありました。
その時ルートヴィヒは、シュテファンの職場に手紙を書いて、細心の心遣いをしてくれるよう依頼し、親友を支えました。
最晩年のルートヴィヒは孤独でしたが、大きな慰めとなったのは、シュテファン一家が近くに住んでいたことでした(シュテファンは最初の妻が亡くなった後、再婚した)。
ルートヴィヒは、シュテファンの息子ゲルハルトを「アリエル(妖精)」と呼んで愛し、一緒に散歩をしたりしました。
いよいよ死期が近づいた時、ルートヴィヒは、最も信頼していたシュテファンを遺言執行人に指名します。
しかしシュテファンは、ルートヴィヒが死去した2ヶ月後、後を追うように亡くなったのでした。
末っ子ローレンツ・ブロイニング
末っ子のローレンツ・フォン・ブロイニング(1777~1798)にも触れておきましょう。
7歳年下で医学を学んでいたローレンツを、ルートヴィヒは「レンツ」と呼んで可愛がり、ピアノのレッスンも欠かしませんでした。
ボンがフランス軍に占領された1794年、17歳だったローレンツは、前述の医師ヴェーゲラーに連れられてウィーンにやって来ます。
ルートヴィヒは、そんな彼を温かく迎えて世話をしました。
3年間のウィーン滞在を終え、ローレンツがボンに帰るとき、ルートヴィヒは心のこもった別れの言葉を贈ったといいます。
しかし翌年、21歳という若さでローレンツは亡くなりました。
親友がベートーヴェンの心を開いた
「ルイ」と呼ばれた少年が、思春期の大切な時期に、ヴェーゲラーという兄のような存在と出会い、ブロイニング家という第二の家庭を得たことは、とても大きなことだったでしょう。
激しすぎる性格で毀誉褒貶も激しかったベートーヴェンを、生涯にわたって支え続けたのは、この時期に出会った親友たちだったのです。
▼次回「〈16~21歳〉モーツァルト訪問、母親との死別、ボンでの最後の日々」はこちら。
【ベートーヴェンの生涯6】〈16~18歳〉モーツァルト訪問、母親との死別、新たな思想との出会い